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葉月№9

本日は、東京国際空港の(羽田空港)開港記念日にあたります。

1931年(昭和6年)8月、面積にして53haに、長さ300m幅15mの滑走路1本を設けて開港されました。我が国初の国営民間航空専用空港『東京飛行場』から歴史が始まります。

そして、1938年から1939年(昭和13年~14年)にかけて最初の拡張工事が行われ、長さ800m、幅80mの滑走路2本が整備されています。

一時、終戦後には、進駐軍に接収されますが、1958年(昭和33年)7月に全面返還されます。この間にも、滑走路や誘導路、エプロン等の延長、拡張工事がなされていました。

時代が、ジェット化する中、空港施設もバージョンアップされ、1964年から1971年(昭和39年~46年)には3本の滑走路を有する羽田空港の原形!が出来上がりました。

そんな中、1978年(昭和53年)に新東京国際空港(成田空港)が開港され、殆どの国際線が、羽田空港から成田空港へ移転しました。

その後、羽田空港は国内線空港としての役割を担う事になりますが、昭和45年頃からの航空機の大型化や、高速、大量輸送時代の到来も有り、またその頃世間では航空機騒音が社会的に注目されるようになり、空港施設を大規模に沖合へとの工事が始まります。此の工事は1984年~2007年(昭和59年~平成19年)にかけて行なわれています。

そして、更なる拡張工事が行われ4本目となる「Ⅾ」滑走路が完成し、2010年(平成22年)10月21日より使用開始されています。

当方が空港に関しての「記憶」として鮮明に覚えていることに「成田空港」の用地「三里塚」の闘争が有ります。

1966年に、新たな空港用地として「三里塚」が浮上し、この年の7月に突如閣議決定されます。

以降、その土地で生き続けて来た住民と、その周辺住民対建設を推進する国家的プロジェクトとの間で、激しい闘争が始まります。用地内の農民や支援者等が、砦や要塞、鉄塔、団結小屋等を建設し、国とも衝突を繰り返し、双方に多くの犠牲者も発生しました。

こうした状況の中、1978年に空港は1本の滑走路にて開港します。

その後、色々な話し合いを繰り返して、位置決定から28年もの年月を費やして地域と空港の共生を目指す「成田空港地域共生委員会」が発足します。

今の空港を見る限りとても想像出来ないような時代がありました。多くの方々の「犠牲」の下、今の便利な生活があると言う事を忘れないようにしたいものですね。

 

高田司法書士事務所

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